一般社団法人 白石市観光協会 オフィシャルサイト[観る:片倉小十郎]

独眼竜伊達政宗を支えた
文武両道の名将である片倉小十郎。
「国家の大器」として秀吉や家康からも高い評価を得た、とても興味深い偉人です。

片倉小十郎と白石

伊達政宗の幼少時代から、傅役(もりやく)として生涯を捧げた片倉小十郎 景綱。

人取橋の合戦や摺上原(すりあげはら)の戦いなど、伊達家の決戦場で冷静な大局観から幾多の危機を救ってきました。

その知将ぶりは「国家の大器」として秀吉や家康からも高い評価を得た伊達家随一の名参謀。

数々の偉業を成し遂げ、慶長7年(1602年)に白石城を拝領、以降明治維新まで片倉家の居城となりました。

片倉小十郎(景綱)が拝領した当時の石高は1万3千石、最終的には1万8千石まで加増されました。

白石城のある宮城県白石市は「片倉小十郎のふるさと」。
片倉小十郎の墓や神社があり、当時の歴史を知ることができます。

戦国イメージ

清流流れる桜道、美しい町並みを歩く

蔵王国定公園、天然記念物等自然環境に恵まれた白石市は、古代より交通の中心地で、軍事的にも重要な地域でした。

官人達をはじめ俳人・歌人の往来もはげしく、下紐の関や忘れずの山(不忘山)などが、しばし歌枕に詠まれています。

しかしその優雅さとはうらはらに、越河から斎川にかけては、狭く峻険な山道であり、容易に人を寄せ付けない難所でした。

こうした環境の中で歴史的絵巻物語が繰り広げられていった白石市は昭和五十五年「史跡のまち」の指定を受けて以来数多くの史跡や文化財、自然環境を整備し、豊かな「まち」づくりを進めています。

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花崗岩の玉垣に囲まれた片倉家御廟所

片倉家御廟所は、石畳を敷いた床面の上に、10体の大きな石像と1基の墓碑が花崗岩の玉垣に囲まれて佇んでいます。これは東北の陪臣の墓所としては全く他に見られないものといわれております。

三代片倉小十郎景長は、片倉家代々の城主の墓所を、白石城の見える福岡蔵本の愛宕山麓に決め、傑山寺より初代景綱と二代重長の墓を、景綱の命日にあたる延宝八年(1680年)10月14日に改葬し、仙台の石工に阿弥陀如来座像を刻ませて墓標としました。

景長も翌年病死し、以後十代までここに葬られました。

[住所]白石市福岡蔵本字愛宕山
[電話]0224-22-1343(白石市教育委員会)
[交通]東北自動車道白石I.Cから車で10分
[駐車場]25台
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鬱蒼とした庭樹でおおわれた武家屋敷

宮城県指定文化財の片倉家中武家屋敷は、後小路に佇んでいます。白石城北、三の丸外堀に当たる沢端川に面した町並みで、中級武士の屋敷があったところで、現在も静かな住宅地です。

この屋敷は、宝暦十一年(1761年)の白石城下絵図に「小関右衛門七」とあり、鬱蒼とした庭樹でおおわれ、前面、側面を清冽な水流が巡り、景観にも優れたものがあります。

平成三年(1991年)に母家・門・塀が小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的修復されました。

[住所]白石市西益岡町6-52
[電話]0224-24-3030
[料金]大人200円・子供100円
[交通]東北本線白石駅から徒歩10分
[営業](4月~10月)9:00~17:00/(11月~3月)9:00~16:00
[休 日]12月28日~12月31日
[駐車場]15台
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甲冑堂

義経に平泉時代から仕えた佐藤基治の子継信と忠信は、平家追討に数々の武勲をあげています。しかし、兄継信は屋島の戦いで義経に代わって討死しました。
その後、義経が兄頼朝の追求をさけて、吉野山に逃れ、敵に発見された時忠信は義経を名のって敵を引きつけ、義経を落ち延びさせた後、京都堀河で敵に襲われ切腹して果てました。文治三年、義経主従は平泉にたどり着いています。

しかしその中に継信、忠信の姿を見ることができず、老婆の嘆きは大きいものでした。そこで兄弟の妻、楓と初音が夫の鎧、兜を身につけ老母の前に進み出て「継信、忠信ただいま帰参して候」と高らかに告げ、老母を慰めたといわれています。

二人を祀る甲冑堂は芭蕉をはじめ数多くの文人が訪ねていますが、明治八年焼失しました。その後、昭和14年甲冑堂が斎川田村神社境内に再建され、女武者二体の木像が安置されています。

[住所]白石市斎川上向山115(田村神社内)
[電話]0224-26-2315
[交通]東北自動車道白石I.Cから車で25分
[休 日]不定休
[駐車場]20台
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